連休を使って東京都江戸東京博物館で開催中の特別展、「大関ヶ原展」を見てきました。
カレンダーは黒色だけど、会社は休み。
作家としての仕事も特にない。
そして、家族はそれぞれの用事で外に行ってしまう。
そんな奇跡に近い日がありまして、思わず念願だった江戸東京博物館の「大関ヶ原展」に行ってきました。
会社や学校は普通にある日だったので空いているかと思ったら、チケット買うのに行列!
いやぁ、驚きました。
同時に嬉しかったですね。歴史に興味のある方々が多いということの裏返しでもありましたから。
海外の方が多かったのもうれしかったですね。
30人くらい前に並んでいたので後ろの列に並びました。
と、後から来た30前後の男性が列の前の方に割り込み。
絶対に居るんですよね、こういう人。
列がきちんと統制されていなかったので、周りが気がつかないように割り込んでいました。
私は見ていましたが。
で、気分が悪いので、こういう割り込みをしたことでどのくらいの時間差が生じるのか時計で計測しました。
つまり割り込みを行った男性ときちんと列に並んだ私の間でチケットを購入するのにどのくらいの時間差が生じるかということです。
結果、
約4分30秒
生ラーメンを茹でる時間くらいですかね。
5分くらいなら待ってもいいかな、の5分よりも短い時間でした。
この時間のためにマナー違反をするというのは人としていかに無意味なことか、定量的に計測しておきました。
さて、そんなことはさておき無事にチケットを購入して中に入ると、大関ヶ原展は
人、人、人!
午前中に行ったのですが、最も込み合う時間帯だったようです。
「順路はありませんので、先に奥をご覧いただくことが可能です」
という係員の声に耳を傾けながら激混みの「関ヶ原合戦屏風」を颯爽と駆け抜け、先に行きました(一通り見た後、再度戻ってきてゆっくり眺めましたが)。
今回の大関ヶ原展でわかったこと。
それは、
「わかりやすい闘いの前段階で勝負を分ける闘いは大きく進んでいたのだ」
ということです。
絶対的カリスマを有していた秀吉の死後、家康と三成の根回しを物語る各種書状は非常に興味深かったですね。
家康の罪状を羅列した
「内府ちがいの条々」
は家康の振る舞いを批判する内容の文言をきれいにまとめあげており、三成の執念を感じました。
また、関ヶ原で最も引き合いが強かった大名の一つである「真田家」への西軍、東軍それぞれからの誘いも多く展示されていました。
武田家の家臣から始まって、武田家滅亡後も地の利と独自戦略で大名にまで駆け上がった真田家の行く末が東西両軍にとってとても重要だったのかわかります。
最終的に、本田忠勝の娘を側室としていた真田信幸は東軍に、真田昌幸と信繁(幸村)は西軍につくことで真田家の存続を優先した戦略を取ったといわれています。
その後、関ヶ原に向かう徳川秀忠率いる3万8千の兵はわずか2000の真田親子の守る上田城を落とすことができず、秀忠は関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。
この真田昌幸の肖像画も展示されており、想像したよりもずっと小さなものでした。
家康を最後まで恐れさせた昌幸、そして大阪城での真田丸で家康を苦しめた信繁。
彼らのような反骨精神がとても魅力的に見えました。
長いものに巻かれることなく、自らの信念に基づいて行動し、それでもお家存続のためのセーフティーネットも張っておくという真田家の考え方は今でも見習うことが多いですね。
最後に個人的なお話をさせてもらって今日のブログは終わりにしたいと思います。
薩摩の雄、島津家当主、島津義久の右腕として活躍した島津義弘。
島津はもともと東軍につこうとしていた、という見方が有力なようですね(管理人は知りませんでした)。
それ故、関ヶ原の合戦では最後の最後まで動くことなく、西軍が崩れ始めてから敵中突破で退却するという不可解な行動をしたといわれているようです。
東軍につきたいという島津の申し出を断られた島津は徳川に対する憎しみを持ったとも伝えられており、300年後に薩摩が長州と組んで徳川幕府を終焉に導いたというのも皮肉な話です。
この島津義弘は文化人でもあり非常に教養のあった上に戦上手でもあったことから日本史を学び始めた中学生の頃から尊敬していました。
実はこの島津義弘から1字もらって自分の息子の名前に使わせていただいています。
息子にもこの島津義弘のように文武両道になってもらいたいと願って名前を付けたものの、そういう自分はどうだと考え、ふと自己嫌悪に陥ったりしています(汗)。
息子に負けぬよう、自らも精進していきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。